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帰りたい

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帰りたい

看護師3年目になると、何度も同じ患者様が入退院していることがわかる。
そして、同じ患者様の担当になることも多い。3年目になりたての時に担当した乳がん末期のA氏が再度入院してきた。今回も自分が担当であり、日勤で受け持つことが多かった。前回よりも皮膚の浸潤が強く処置を一緒に行っていたのと麻薬の量が増えており、明らかに前回よりも癌が進行していることが目に見えて分かった。
A氏はタイ人であり、20歳のときに日本にきてタイへは何度かしか帰っていない。難しい日本語はわからないが、日常会話はスムーズに行えた。
ある日、A氏の友人が担当看護師を探していると事務から言われたため、話しかけに行くと友人が真剣な顔で「A氏はタイへ帰りたいといっている。だから帰れないか」と相談をされた。今までも他の患者様で「帰りたい」と聞くことはあったが、「タイへ帰りたい」という言葉を聞くのは初めてだった。その後本人にも確認すると、本人も辛そうな顔をし「タイへ帰りたい」「母に会いたい」と話した。A氏から初めてその言葉を聞いた。私はどうにかしたいと思ったが、初めてのケースでどうしたらよいかわからず戸惑い、先輩や主治医に相談した。MSWにも協力してもらいタイへ帰る方法をみんなで探した。A氏は日本で生活保護を受けていたため今後金銭面はどうしていくのか、酸素投与しているが飛行機はどうなるのか、タイでも在宅酸素の手配をする必要があるなど様々な課題があったが他職種と連携しなんとかA氏がタイへ帰る手配ができた。
A氏の住んでいる場所はタイからも遠く車で2時間ほどかかるという。A氏は「田舎だから何もない。けど母にあいたい」とよく話していた。なくなった旦那様の写真を見せてくださり「この人に会えたから日本にきてよかった」と嬉しそうに話していた。A氏には何人もの外国人の友人が毎日面会に来ており、友人たちもタイへ帰れることをすごく喜んでいた。
ある日、一緒にタイへ帰る友人に酸素ボンベの使い方を説明した。本人も一緒に聞いており友人とともに練習していた。その日の日勤の終わりに挨拶に行った際に私は「あと少しですね!!」と話すとA氏も「もう少し。ありがと」と嬉しそうに話していた。
翌日、日勤に行くと大部屋にあったA氏の名前が個室にあった。A氏はその日の朝方に眠るように息を引き取った。モニターもついておらず夜勤の看護師が朝ラウンドした際に発見された。私は、受け入れられず最初は病室に入ることができなかった。チームの先輩に励まされなんとか病室へ入ると、苦しさから解放されたような顔のA氏がいた。A氏の顔を見ると涙が溢れていた。タイに帰るまで後4日だった。お母さんに会わせたかった。自分は結局A氏に何もできなかったと思い涙が止まらなかった。まさかA氏がこうなることを私は全く予想していなかった。あと4日の間で何か起こると思っておらず安易に考えていた自分に気づいた。自分たちの4日とA氏の4日は異なる。癌は目に見えなくても確実に患者様の体をむしばんでいる。突然その時がくるかもしれないと気づかされた。
何気なくA氏の外来の記録をさかのぼってみると、「帰りたい」とA氏のS情報が記載されていた。もう少し早くこの記録をみていたら4日早く動けたかもしれない。そしたらタイへ帰り母国で最後の時間を過ごせたかもしれない。お母さんに会えたかもしれないととても後悔した。そして冷静になって考えると、末期がんの患者様がなぜ母国に帰らないのだろうと疑問に思わなかったのか。自分がアメリカで同じ状況であったら母国に帰り家族に会いたいと真っ先に思う。今回のA氏は「帰りたい」と思っていたが私はそれをA氏の友人から聞くまで知らなかった。A氏の本当の気持ちに気付けなかった。きっと私は末期がんの患者様の恐怖や苦しみを自分のことに置き換えて考えられていなかった。
もっと早くA氏に寄り添えたら、自分だったらと考えられていたらもっと早く気付けていたのかもしれない。
どこで最期を迎えるか、本人が決める権利があると思う。しかし、患者様がそれを自分から言えない場合や迷いがある場合もある。私は患者様の最期の時を一緒に考えていける看護師になりたいと思う。そのために、患者様の不安、恐怖、迷いに気付けるようにしたい。全部の理解は難しいかもしれないが、苦しいかもしれない、こう思っているのかもしれない、自分だったらこう思うかもしれないと予測にはなるが考えていきたい。また、時間は限られている。末期がんなどは特に突然何が起こるかわからない。そのことを頭に入れて1日1日大切に患者様と接していきたい。

 

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